日蓮仏教の勉強 幸せに生きる為の方法を学ぶ

法華経を中心に仏教の勉強をしています















何を得た、何を成し遂げた

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しっかり頑張ってあらゆることに挑戦し、

 

成功して大会社の社長になったとしても

 

奴隷のように働いただけなのです

 

株式会社になればなったで

 

自分の手から離れて行く

 

会社が大きくなっても

 

歳をとれば自然と自分の手から

 

離れて行く

 

そして死ぬ時

 

自分が何も得ていないことに気づくと

 

人生は悔しいのです

 

実のところ、

 

「何を得た」とか

 

「何を成し遂げた」とか

 

「どういう評価があるか」など

 

自分の幸せと関係ないのです

 

大切なことは

 

その都度その都度

 

やるべきことをしっかりやることなのです

 

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最後まで読むと、幸せを感じるためにはどうしたらいいのかわかるようになります

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今回は、苦楽不二というのをやってみようと思います。

 

不二というのは、「二つではない」という意味で、全体的には

 

苦しみと楽しみは二つのものではない、つまり別々ではないということになります

 

普通に考えると、楽しいこと、面白いこと、愉快なことというのは、

 

苦しいこと辛いこと嫌なこととは別々で正反対のことなんじゃないかと

 

思うかもしれません

 

例えば、暑いというときに、毎日毎日大変だなあ、苦しいし辛いっていう

 

時や、もう片方では、エアコンが入ってて、涼しい、快適だな、楽で楽しい

 

これらは一見、正反対のように思いますね

 

仕事とかで考えてみると、仕事が評価されるとかすごく好かれている人、

 

みんなからも評価されているというのが楽しいことだとすると、

 

仕事が認められず評価されない、人から嫌われているというような感じだと

 

今度は苦しい、辛いとなるとこれは逆のことになりますね

 

もちろん、病気で辛いっていう人と、元気で動き回れるとなると

 

別々のことのように思うので、苦楽不二、二つでない別々のものじゃないですよと

 

言われても、そうか?ってなるんじゃないかと思います

 

これについて仏教では、その苦しみというものがあるから喜びや幸せや楽しみを

 

感じることができる

 

逆に、幸せとか喜びがあるからこそ、苦しみ、辛さなどを感じるんだと言われています

 

お腹がペコペコ、飢餓の苦しみがあるからこそ、食べられるときは、美味しいと

 

言って食べることができるわけで、お腹いっぱいの状態でどんなに美味しい料理が

 

運ばれてきても、美味しいと心底感じることはできないのではないでしょうか

 

料理自体がまずいわけでもなく、美味しいもののはずなのに、空腹状態に

 

なければ、美味しいものを美味しいと味わうのは結構難しいんじゃないかなと

 

思います。

 

食べ放題などに行って食べまくる時も、最初は幸せですが、食べすぎると苦しい

 

となると思います

 

空腹という苦しみからお腹いっぱいという幸せ喜びになったのですが、それを

 

行き過ぎてまた苦しみになるということです

 

これは、目の前の苦しみや困難から逃げても、その先に幸せや喜びは

 

訪れない、逃げるのではなく、乗り越えることで、その先に幸せや喜びが

 

あるんだよということですね

 

 

 

 

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もしも、楽だけがあったら

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一口食べると幸福、二口目も幸福、十口目も幸福なら

 

お腹が破裂するまで食べ続けます

 

死ぬまで止まらないでしょう

 

一口食べて幸福を感じるのは強烈な空腹が減ったからです

 

二口目はそれほどの幸福感はありません

 

空腹の苦しみが小さくなっているからです

 

十口目ぐらいになってくると

 

もう空腹の苦しみはないので、

 

美味しくない

 

それどころか満腹の苦しみが生まれてくる

 

それで食べるのをやめるのです

 

もしも生きることに楽しか感じなかったら

 

人生はすぐにゲームオーバーです

 

 

 

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立正安国論(りっしょうあんこくろん)現代語訳 1

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ある日のこと、一人の旅客(北条時頼)が私(日蓮)の家にきて、こう嘆きました

 

最近は、日本国中に天変地異が相次いで、大洪水や大地震がしきりに起こり、

 

飢え死にする人も絶えず、疫病がいたるところにはびこっています。

 

牛や馬があちこちで死に、その骨で道が埋まっています。

 

死んでしまうものは数知れません。

 

こんな悲惨な状態を皆悲しんでいます。

 

 

 

幕府や朝廷は、いろいろな対策を講じました。

 

西方極楽浄土におられる阿弥陀如来の名号を唱えています。

 

これは、中国で浄土教を大成した善導大師の「般舟讃」に説かれている

 

「利剣即是」、つまりありとあらゆる罪業を全て消滅させる利剣とは

 

南無阿弥陀仏」と唱えることに他ならないという文言を信じたからです。

 

また、東方瑠璃光浄土におられる薬師如来の経典を読誦しています

 

これは、生命に関わる病気になっても治療できなかったり、

 

医者に見てもらえなかったり、薬がなかったり、親がなかったり、

 

家がなかったり、貧しかったりしても、薬師如来の名号を聞けば、

 

みな解決してしまうという、薬師如来の第七願に期待しているからです。

 

また、「法華経」こそ釈迦牟尼仏の真実の教えを伝えていると崇め奉っています

 

これは、この経典こそこの世の良薬だから、この経典を耳にするならば、

 

ありとあらゆる病気は癒やされ、不老不死になるという、「法華経」の

 

「薬王菩薩本事品」の文言を尊んでいるからです。

 

また、鎮護国家密教経典として有名な鳩摩羅什訳の「仁王経」を

 

百人の僧侶が公演する仁王会の儀式をいとなんでいます。

 

これは、七つの難、つまり

 

1、日月の運行が狂って寒暑の時節が逆になったりなどする

 

2、星座の運行が狂って不吉な兆候とされる彗星が現れたりなどする

 

3、大火災が国中を焼き尽くし、大勢の人々が焼け死ぬ

 

4、天候異変が起こり、大災害をもたらす

 

5、大風が吹いて、大災害をもたらす

 

6、伝染病が起こり、大勢の人々が死に絶える

 

7、四方から賊が攻め込んできて、国内も戦乱が起こり、

 

ついには世界全体が戦争に巻き込まれる

 

という大難も、「仁王経」を讃える儀式をいとなめば、たちどころに消えて、

 

七つの幸福がもたらされるという、「仁王経」の「護国品」の文言を

 

信じているからです

 

また、灌頂壇と称する聖なる壇の上の東西南北と中央に五つの瓶(びょう)を

 

安置し、その中に金・銀・真珠・珊瑚・琥珀の五宝、

 

稲穀・大麦・小麦・ろくどう・胡麻の五穀、

 

人参・黄精根・甘草・遠志・白朮の5薬、

 

沈香・白檀・龍脳・薫陸・白膠香の五香を入れ、

 

真言をとなえ、聖水を注いで、災難を払う儀式をいとなんでいます。

 

これは、真言密教の余人には決して知らしめない秘法を信じているからです

 

また、自分の心を満月のごとく完璧で何一つ汚れはないと如実に見極めて、

 

この世の森羅万象はことごとく空である、つまり有るのでも

 

なければないのでも無いという絶対の真理に到達すれば、

 

天変地異もまた空なので、実は何の災いもないという認識が得られると

 

主張しています

 

これは、禅宗坐禅によって、全ての苦悩を取り除けると考えているからです。

 

また、7人の鬼神の名前を全ての門に貼って、魔除けにしています。

 

これは、中国の密教を大成し、弘法大師空海はその生まれ変わりとも

 

言われる不空三尊が翻訳したと伝えられる「却温黄神呪経」に、

 

疫病が流行した時は、これら7人の鬼たちの名前を呼んで退却させれば、

 

疫病がおさまると説かれているからです。

 

また、五大力菩薩の姿を絵に描いて、家ごとに掛けています

 

これは、「仁王経」の「受持品」に、五大力菩薩の姿を絵に描いて供養すれば、

 

霊験あらたかだと説かれているからです。

 

仏教のみならず、天上をつかさどる神々ならびに地上をつかさどる

 

神々を駆使する陰陽道の儀式もいとなまれています

 

京の都に通じる山崎と逢坂と和迩(龍花)と大江では、

 

陰陽師たちによって東西南北の4隅に祭壇がきずかれ、

 

疫病神に酒や米や魚介類などを振舞って満足させた上、突然、

 

鶏を放してその声で退散させる四堺祭が実施されています。

 

また、朝廷や幕府は、貧窮した民に食物を与えたり、税を免除するなど、

 

情け深い善政を行っています。

 

ところが、以上の施策は、いくら一生懸命にやっても現実には

 

何の効果もありません

 

飢餓と疫病は、ますます増える一方です

 

どこを見渡しても、物乞いをする人と死んだ人ばかりです

 

死体の多さは積み重ねれば高い建物となり、並べれば橋になるくらいです。

 

考えてみれば、太陽も月も規則正しく運行しています

 

木星も火星も土星も金星も水星も皆規則正しく運行しています

 

仏法僧の三法もまだちゃんとあります

 

100代で終わりを迎えるとされる天皇も、まだその百代には至っていません

 

にも関わらず、この世の衰退ぶりは一体なんでしょうか

 

仏法も王法も、なぜこれほど廃れてしまったのでしょうか

 

この事態は、いかなる罪が原因なのでしょうか

 

いかなる誤りが原因なのでしょうか

 

こう問われて、主人(日蓮)が答えました

 

実は、私もこの事態を憂慮して胸中色々悩んでいたのですが、

 

それを語る相手がいませんでした

 

あなたがここにいらして、同じ思いを抱いておられることがわかりましたので、

 

互いに思うところをじっくり話し合おうではありませんか

 

そもそも、出家して仏道に入る目的は、釈迦牟尼仏の教えに従って修行し、

 

悟りを開いて仏になるためです

 

しかし、現実の社会を見ると、神々への祈りは通ぜず、

 

仏の力も何ら効果がありません

 

こんな現実を見ていると、出家して修行を積めば、

 

未来にはきっと仏になれるという大事な約束に、疑いを生ぜざるをえません

 

そう思うと、天を仰いでは出家の目的がもはや失われてしまったと嘆くほかなく、

 

地に伏しては災難が続出する原因に悩む他ありません

 

所詮は私の狭い了見にすぎませんが、経文を紐解いて、

 

災難の原因を探って見ました

 

すると、こういうことがわかったのです

 

すなわち、この災難の原因は、世の中の人々が皆、正しい教えに背き、

 

悪しき法や邪まな法に帰依してしまったことにあるのです

 

そのために、本来ならこの国を守るべき善神たちはこの国を見捨てて去ってしまい、

 

正しい法を広めるべき聖人たちもこの国を見捨てて帰ってこないのです

 

この国に、善神も聖人もいなくなってしまったために、

 

悪魔が跋扈し、悪鬼が跳梁し、災難がとどまるところを知らず、

 

次々に起こるのです

 

このことをいとわずには済まされません

 

また、恐れずにはいられません

 

主人(日蓮)の言葉を聞いて、旅客(時頼)がこう言いました

 

天下に広がる災難も、国中に溢れる災難も、

 

私一人が嘆いていることではありません

 

人という人が皆、かなしんでいるのです。

今、あなたの立派な家に入り、初めて貴重なお言葉を耳にして、こう思いました

 

善神たちや聖人たちがこの国を去ってしまい、そのために災難が

 

とどまるところを知らず、次々に起こるということは、

 

どの経典に書かれているでしょうか

 

その証拠を是非とも伺いたいと存じます

 

そう旅客に尋ねられて主人は答えました

 

私が先ほど申し上げたことを証明するに足る経文は、甚だ沢山あります

 

また、その証拠は経典の中にいくらでも見出せます

 

「金光明最勝王経」の「四天王護国品」には、こう説かれています

 

語り手は、かの四天王の面々です

 

「ある国に、その経典はすでに伝わっていますが、まだ広まってはおりません

 

国中の者たちは、その経典を無視して、顧みようともしません

 

ましてや、供養したり、尊重したり、讃歎したりしません

 

僧侶も尼僧も男女の在家修行者たちも皆、その経典を信仰する人を目にしても、

 

尊重したり、供養したりしないのです

 

ですから、私たち四天王も、配下の者たちも、数かぎりない神々も、

 

この誠にありがたい教えを耳にすることができないのです

 

その結果、私たちは、この身を養う真実の甘露を味わうこともできず、この身を

 

正法、すなわち仏教の正しい教えの流れで清めることもできず、

 

結局は私たちの威光も勢力も衰えざるをえないのです

 

そうなると、この国には、地獄に象徴される怒りの心、

 

餓鬼に象徴される貪りの心、畜生に象徴される愚かさの心、

 

修羅に象徴される闘いの心という、4つの悪しき心ばかりが増長してしまいます

 

人間界や天上界の善き心は衰え、人々は皆、

 

輪廻転生を繰り返す迷いの道に堕ちて、涅槃などとてもかなわなくなってしまいます。

 

 お釈迦様。私たち四天王も配下の者たちも、

 

外道を見限って仏法に帰依してきた夜叉なども、

 

このような状態を目の当たりにして、その国を見捨てて、

 

もはや守ろうとする心を起こさなくなります

 

私たちだけがその国の王を見捨てるのではありません

 

その国には、国を守護するあまたの善神たちが絶対にいるはずですが、

 

彼らもまた、ことごとくその国を見捨てて去ってしまうでしょう

 

私たちがその国を見捨ててさってしまえば、その国には

 

数え切れないくらいたくさんの災難が起こり、国王はその地位を失うでしょう

 

その国に住む人々は皆、善き心を失って、ひたすら他人を縛り上げ、

 

殺し合い、争ったり、互いに誹謗中傷をしあったり、

 

罪なきものに罪を着せて陥れようとするでしょう

 

疫病が流行し、悪しき兆候を告げる彗星が頻繁に現れ、太陽が二つ同時に出たり、

 

日食や月食がデタラメに起こり、黒と白の虹が出て不吉を告げ、

 

星が流れて地震が起こり、井戸の中から異様な声が聞こえ、

 

季節外れの暴風雨が襲うでしょう

 

飢餓がずっと続き、五穀は実らなくなるでしょう

 

異国からたくさんの賊が押し寄せてきて、国内を侵略し、

 

人々は苦しむだけ苦しめられ、国中のどこにも安楽に

 

暮らせるところはなくなるでしょう」

 

以上が、「金光明最勝王経」の「四天王護国品」に説かれている内容です

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

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幸福感の正体とは・・・・・

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今まであった苦しみがさっと消える瞬間に、

 

「気分がいい」と感じます

 

立っていて疲れた人が、座った瞬間に楽しみを感じる

 

立つという苦の原因が消えたことで苦しみが消えます

 

苦しみが消えた瞬間に、楽しみを感じるのです

 

お腹が空いた人には、一口目がとても美味しい

 

口にした瞬間、空腹感という苦しみが消えるからです

 

苦しみというものは、原因が消えたら瞬時に消えるのです

 

苦しみが消えることがすなわち「楽」であり

 

幸福感の正体です

 

 

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苦の発見者が苦を乗り越える

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全ての生命は、苦からどうやって逃げようかと必死です

 

でも、いくら苦から逃げ続けても、安定した「楽」に

 

達することはできません

 

生きることが苦、だからです

 

苦から楽へ逃げたつもりで、実際は「苦から別の苦へ」

 

逃げているのです

 

だから当然、また他所へ逃げることになる

 

私たちは瞬間たりとも「苦」から離れられません

 

しかし、この事実を否定して

 

「たまたま苦だ」と思い込んでいるのです

 

「生きることは苦なり」と発見したブッダだけが

 

全ての生命に

 

「苦を乗り越える」道を示すことができたわけです

 

 

 

 

 

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苦から苦への引っ越しという考え方

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幸福の追求だと思ってやっていることは、

 

Aという苦しみに耐えられなくなって、

 

Bという苦しみへ「引っ越し」することだったりします。

 

Bが苦しみだとわかると、今度はCに引っ越すわけですね

 

挙げ句の果てに、死後、天国や浄土に行きたいと

 

願うのは、

 

そこには現世よりも、

 

良い感覚があると思っているからです

 

しかし、天国に行くことさえも、

 

「苦から苦への引っ越し」に過ぎないと

 

ブッダは説いています。

 

 

 

 

 

 

 

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