法華経 第2章 方便品
方便というのは、サンスクリット語では、ウパーヤというそうです。
ウパというのは、近くにという意味で、アヤというのが行くことという意味に
なります。
つまり、近くに行くということ
この方便というのは、覚りに至るための最短距離、最善の方策という意味
釈尊は、みんなにはなかなか理解が難しいだろうという前置きをしてから
弟子の舎利弗に語り始めます
釈尊が、ブッダに至るためのただ一つの乗り物について説いていくと言いました。
さらに舎利弗に語りかけます。
何か第二、第三の乗り物が他に存在するわけではない
この、乗り物というのは、ブッダに至るための教えのたとえになります。
法華経以前には、声聞は阿羅漢果、独覚は独覚果、菩薩はブッダになるという
流れが説かれており、これらを三乗と呼んでいました。
ただ、釈尊は、これら3つの乗り物があるのではなく、実際は乗り物は一つ
つまり、声聞も独覚も菩薩も最終的にはブッダになるという、一仏乗の教えを
説いているわけです。
冒頭に、声聞も独覚も理解できないと言っていたが、その理解できないと言ってる
内容が、結局、あなたたちには理解するのが難しいというのは無知ですねと
言ってるのではなく、あなたたちがいかに優秀であるかについて無知であると
いうことを言っているわけです。
まわりくどい言い方ですが、結局、あなたたちは自分がどれだけ優秀であるか
について全然わかってないということが言いたいようです。
ブッダからすれば声聞も独覚も菩薩もなく、全ての人は平等であり、
最初は見下されているように思ってた弟子たちが、この話を聞いて、自分たちは
実は認められていたんだということがわかるという内容になってます。