日蓮仏教の勉強 幸せに生きる為の方法を学ぶ

法華経を中心に仏教の勉強をしています















法華経 第4章 信解品

この信解品は譬喩品を聞いた声聞の弟子たちが、私たちはこのように理解しましたが

 

正しいでしょうか?ということを譬喩に例えて御釈迦様に説明している章となります。

 

信解というのはサンスクリット語でいうとアディムクティと言うそうです。

 

アディというのは「〜に向かって」ムクティというのは「解き放つ」という

 

意味だそうです。

 

心が何かに向かって解き放たれる、つまり、東大受験を目指して受験勉強をする

 

時に、心は数年後の東大受験に向かっているというようなイメージ。

 

そのことを信解というようです。

 

 

声聞の弟子たちが、御釈迦様に、語りかけます。

 

世尊よ、我々は一度たりとも覚りに対して願望する心はありませんでした。

 

誰でも覚りに至れるという話はとても不思議な気持ちになると同時に、

 

大きな収穫を得ました。

 

我々は、求めることもなく、探求することもなく、考えることもなく、

 

熱望することもなく、大いなる宝を得ました。

 

これらの話を「長者窮子の譬え(ちょうじゃぐうじのたとえ」で話し始めます。

 

昔あるところに、50年前に行方不明になった息子を待ち続ける資産家がいました。

 

その資産家の家に近づいたみすぼらしい男が捕らえられると恐ろしい目に合うと思い

 

慌てて逃げ出します。

 

資産家はその男を見た瞬間、彼は自分の息子であると気がつきます。

 

そこで、兵を使って彼を連れてこさせようとしますが、男は、恐怖のあまり

 

気絶をしました。

 

父親は、誤解を解くためにその男を解放します。

 

その後、いい仕事があると言ってその男を雇うことにします。

 

汚物処理の仕事ですが、男は喜んで引き受けます。

 

男の仕事ぶりを見守っていた父親は次第に重要な仕事を与えて行くようになります。

 

最終的には自分の財産の管理を任せることにし、息子という愛称までつけることに

 

します。

 

男は、「本当の息子じゃないのに、息子だと言ってくれている」と思いました。

 

そして、父親が亡くなる間際に、多くの人を集め、この男は何十年も前に行方不明に

 

なった実の息子です、財産は全てこの男に与えますと宣言しました。

 

この言葉を聞いて男は、求めずして大いなる宝を手に入れたと思い、

 

不思議な気持ちになりました。

 

この譬えでいう宝というのは、覚り、ブッダになれるということ

 

父親は釈尊

 

息子は声聞独覚などの弟子たち

 

声聞独覚の人々は、自分たちは覚れないんだと思っていたので、いきなり

 

あなたたちも覚れるんですよと言われてもそんなにすぐに受け入れられるもの

 

ではないのでそれを20年も50年もかけて見守りながら理解させるという

 

内容であり、それが仏教であるというとても深い内容となってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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