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日女御前御返事(にちにょごぜごへんじ) 現代語訳

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お布施の七貫文をお送りいただき、まさに受領いたした。

法華経の属累品の意味するところは、仏が多宝塔から出られ、虚空の中にお立ちになられて、四百万億那由陀という広大な世界の中で、ちょうど武蔵野の芒(すすき)や、富士山の木のように、ぞくぞくと教多く膝を詰め寄せ、頭を地につけ、身体を曲げ掌を合わせ、汗を流しながら、皆一心になって付嘱を受けようとしている。

すなわち本化といわれる上行等の犬菩薩や、文殊等の迹化の菩薩たち、ならびに大梵天王・帝釈・日月・四天王・竜王十羅刹女らの守護神等に、仏の滅後末の世に法華経を弘めることを任せようとして、三回それらの頭をなでられたのであった。例えば慈悲深い母が、一人子の髪をなでて愛してやるようであった。

その時に、上行菩薩を始めとして日・月等の諸天善神らは、仏の尊く大切な命令を受けて、この法華経を仏の滅後の末の世に弘めることを誓ったのである。

法華経の薬王品の中には、その昔、一切衆生喜見という名の菩薩がいたが、その菩薩のことが説かれている。それによると、この菩薩は日月浄明徳仏という仏から法華経を教えていただいたのであるが、そのおりの師の恩と、法華経の尊さに深く感銘を覚え、あらゆる宝物をもって供養したが、なおそれでも心に足りないものを感じ、ついにわが身に香油をぬって、千二百年もの間、灯火をつけて身を焼き、さらにそのあと七万二千年もの間、わが臂を灯明として燃やし続け、法華経に御供養したのであった。

したがって、現在、法華経を仏の滅後第五の五百歳にあたる末法の女性が供養したとすると、その功徳は少しも残すことなく譲り与えられることになるのである。例えば長老がその一人の子に、自分の全財産を譲り与えるのと同様である。

次に法華経の妙音品というお経には、この娑婆世界から東の方向にあたる浄華宿王智仏の国にいた妙音という名の菩薩のことが説かれている。

それによると、この菩薩は昔、雲雷音王仏の御代に妙荘厳王の后であった浄徳夫人の後身であった。昔、法華経を供養した功徳により、今は妙音菩薩となったのである。釈迦如来が娑婆世界で法華経をお説きになられた際、その場に来て末代の女性が法華経を受持した場合は、必ず守護すると約束したのであった。

次に観音品というお経があるが、これはまた普門品ともいう。始めから前半は観世音菩薩を信仰した人たちの功徳が説かれている。したがってこの品を観音品と名付けられている。後半にはその観音菩薩の受持した法華経を受持する人の功徳が説かれている。だからこの品をまた普門品ともいうのである。

その次に陀羅尼品というのは、二人の聖人と二人の天人、ならびに十人の羅刹女法華経の行者を守護することを明確にしたお経である。二聖とは薬王と勇施の二人の菩薩のことであり、二天とは毘沙門と持国の二天のことである。十羅刹女と云うのは、十人の大鬼神女のことで、四天下のすべての鬼神の母にあたる。また十羅刹女には鬼子母神という母があった.。

鬼なので人を食べることが日常の生活であった。人間には三十六の物質が備わっているが、それはすなわち糞と尿と唾と肉と血と皮と骨、それに五臓と六腑と髪と毛と気と命等がそれである。これらのうち下級の鬼神は糞等の不浄なものを食べ、中級の鬼神は骨等を食べ、上級の鬼神は精気を食べるのである。この十羅刹女は上級の鬼神なので精気を食べるのであり、疫病の大鬼神である。

さて、鬼神には二種類がある。その一つは善鬼で、もう一つは悪鬼である。善鬼は法華経の怨敵を食べ、悪鬼は法華経の行者を食べる。

今、日本の国内で去年から今年にかけて、大疫病が流行し法華経の怨敵も信者もともに倒れたのはどうしてなのか、という質問にこれから答えよう。

まず第一は善鬼が梵王・帝釈・日月・四天等の守護神の許可をえて、法華経の怨敵を食べているからである。第二は逆に悪鬼が第六天の魔王の命令を受けて、法華経を修行する人々を食べているのである。例えてみると、善鬼が法華経の怨敵を食べるのは、官兵が朝敵を罰して倒すようなものであり、悪鬼が法華経の行者を食うのは、強盗や夜討が官兵を殺すようなものである。

ちょうど日本の国に仏教が渡来してきたとき、仏法の敵となった物部(もののべ)の大連(おおむらじ)・守屋らも疫病にとりつかれ、仏法の味方となった蘇我の宿彌(すくね)・馬子(うまこ)らもともに病気になったようなものである。

また、欽明(きんめい)・敏達(びだつ)・用明(ようめい)の三代の国王は、心の中では仏法・釈迦如来を信仰していたが、対外的には国の例にならって天照太神や熊野山等の神々を信仰していた。しかも仏と法の信仰は薄く、神社の信仰が厚いものであったので、強いほうに引かれてしまい三代の国王は、疫病の萢瘡にかかって亡くなられてしまったのである。この史実にもとづいて善悪の二鬼のことも、現代の世間の人々が疫病にかかることも、また日蓮の味方の中にも病気になったり死ぬ者も出ていることも理解すべきである。

したがって、身命を惜しまず一心に信仰する人々は病気にとりつかれなくてすむであろう。また病気に万一とりつかれても、助かることができるであろう。しかし大悪鬼にあえば命を奪われることもあるであろう。例えば畠山重忠は、日本第一の大力の大将であったが、多数の敵にあっでついに滅んでしまった。

また日本国のすべての真言宗の人師らが悪霊となり、さらに禅宗念仏宗の人々が、日蓮を敵として攻めるために国中に入り乱れている。また梵天・帝釈・日月・十羅刹の眷属がこれに対抗して、国中に乱れ入ってきている。この双方が互いに攻め合っているのである。

しかるに十羅刹女は全員で法華経の行者を守護することを誓願しているので、すべての法華経をたもつ人々を守護するものと思っているかもしれないが、法華経をたもつ人々の中にも、「法華経より大日経のほうが優れている」などと言いながら、真言宗の人師らが法華経を読んでみても、これはかえって法華経を謗っていることになるのである。

またその他の宗派についてもこれと同様で、法華経をいくら読んでみても、他のお経のほうが優れていると思いつつ読んでいたのでは、かえって謗法となるのである。また法華経を経文に説かれている通りに持つ人々がいても、この人らが他の法華経の行者を欲のため、むさぼりのため、あるいは無知のために、あるいは世間の都合によって、あるいはいろいろな状態から憎む人がいる。これではたとえ法華経を信じていたとしても、信じた功徳は現われてこない。むしろ罰を受けることになるのである。

例えば父母が国主にたいして謀反を起こした場合は別として、その他の場合では子息たちが父母にそむけば不孝の者となる。たとえ父が子の愛している娘を取り、母が子のいとしいと思う男を奪ったとしても、子の立場をほんの少しでも違えてしまったら、現実には諸天善神から見捨てられ、次の世では必ず最も恐ろしい地獄へ落ちる結果となる。ましてや父母よりもまさる賢王にそむくことは間違いなく地獄へ落ちることになる。

さらに、父母・国王よりも百千万億倍もまさる世間の恩師にそむいた場合、さらに出世間の導きの師、特に法華経を教え導いて下さった恩師にそむくことは、間違いなく地獄に落ちることになるのである。

中国の大河として有名な黄河はいつも濁っているが、千年に一度澄むということである。同様に聖人は千年に一度世に出るという。ところが仏は数えきれないほどの長い年月を経て、ようやく一度世にお出ましになられるのである。その仏にあうことができたとしても、法華経にあうことはむずかしい。たとえ法華経にあうことができたとしても、末代の世に生まれた凡夫が、法華経の行者にあうことはむずかしい。なぜかといえば、末代の法華経の行者は、法華経を説かない華厳・阿含・方等・般若・大日経などの千二百余尊よりも、末代に法華経を説く行者のほうが優れているからである。

このことを妙楽大師は、法華文句の記の中で、「法華経の行者を供養する者は、その福徳が仏・世尊よりも過ぎたものとなり、逆に悩ましたり迫害を加えるようなことがあれば、頭が七つに割れてしまうであろう」と解釈している。

今現在、日本中の人々が昨年(建治三年 1277)から今年(弘安元年 1278)へかけての疫病と、去る正嘉の年中における疫病にとりつかれているのは、神武天皇いらい九十余代の現在の天皇に至るまでに、いまだかつて例のない疫病の流行である。これは聖人が国にいるのにその聖人を迫害しているからであるとみえる。

獅子を孔える犬は腸が切れ、日月を呑もうとする修羅は、頭が割れ裂けるというのはこのことである。日本国のすべての衆生は、すでに三分の二が病気にかかり、またその半分はすでに死亡してしまった。今残っている一分は身は病気にかかっていないが、心は病魔に犯されている。また頭も経文にある通り、すでに割れてしまっている人、あるいはこれから割れる人も出るであろう。

罰には四種類がある。すなわち総罰・別罰・冥罰・顕罰とであり、聖人を迫害すると総罰が一国の全体に及ぶことになる。さらに四天下から六欲天や四禅天にもあたる。

これにたいして賢人に迫害を加えれば、ただ加えた敵人のみが罰を受けることになる。いま日本国中に流行している疫病は総罰である。きっと聖人が国に出現しているのを迫害しているためであろう。例えば山が地中に玉を抱いていれば草木は枯れないように、国の中に聖人が住んでいれば、その国は滅亡することはない。

山の草木が枯れないのは、玉が地中にあるからであるということも愚かな者は知らずにいるのである。同様に国が破れるのは聖人に迫害を加えるためであるとも愚かな者はわきまえていないためであろうか。

たとえ日月の光明があっても、目の不自由な人には光も届かない。また声を出してみても、耳の不自由な人にとっては何の用にもたたない。それと同様に日本中のすべての衆生は目と耳の不自由な人のようなものである。このすべての眼と耳とを開いて、すべてのものが見えたり聞こえたりするようにしたとしたら、その功徳はどれほど大きいものか、だれもこの功徳を計算することは困難であろう。

 たとえ父母から産んでもらって眼や耳が備わっていたとしても、いろいろなことを教えてくださる先生がいなかったら、畜生の眼や耳と同じではないか。

日本のすべての衆生は、十方の中の西方の一方のみをたより、すべての仏の中ではただ阿弥陀仏のみを信じ、あらゆる修行の中から弥陀の名号を唱えることだけを実行している。

この三つを基本として、他の修行を兼ねている人もあり、一向にこの三つだけを実行している人もいたが、日蓮は建長五年(1253)より今日に至るまで二十余年間、遠くは仏一代の聖教について、勝劣・先後・浅深の区別をはっきりさせ、近くは弥陀念仏と法華経の題日との違いを確立してきたが、上は天皇より下は万民に至るまで、この相違のあることに従わず、ある者は他の人師について問いただし、またある者は自分の主人に訴えて、またある者は友達と相談し、ある者は妻子や関係者らに語り聞かせたので、国中の郡や郷や村に伝わり、寺院も神社もことごとく聞き知って、人ごとに日蓮の名を知り、法華経と念仏とを対比して逆に念仏のほうが尊く優れており、法華経では願い事がかなわないことを伝え、日蓮は悪い僧であって、その他の諸僧は尊く良い人であると宣伝したのである。

このため上に立つ人は日蓮を敵とみなし、一般の人々は憎む結果となった。そのため日本国中の一同が法華経とその行者との大怨敵となってしまった。

 このように言うと日本国の人々、ならびに日蓮の一門の中にも、もののわからぬ者たちは、人に信じてもらいたい為にありえないことを言っていると思う者もいる。しかしここで述べていることは、仏法の道理を信じている男女に、本当のことを知らせようと考えて真実を言っているのである。各人の心にまかせるしかないことである。

妙荘厳王品(みょうしょうごんのうほん)というお経は、ことに女性のために用いるもので、妻が夫を勧めて仏の道に引き入れた品である。末代の世に至っても、女房が夫を勧めて仏の道に入れることは、名こそ変わってもその功徳はもっぱら浄徳夫人と同様である。

ましてやあなたがたは女房も夫もともに法華経を信仰されているので、ちょうど鳥の両翼が備わり、車の両輪が備わっているようなもので、どんな事でも成就しないことはない。

天と地が備わって日と月が欠けずにあり、日光と雨とに恵まれれば、功徳の草も木もみな花を咲かせて果実を実らせることができるのである。

次に勧発品(かんぼっぽん)というお経は、釈迦仏のお弟子には数多くの僧がいたのだが、その中でも迦葉と阿難は仏の左右に従っていた。ちょうど王様の左右の大臣のようなものであった。だがこれは小乗経の時の仏である。また普賢と文殊という菩薩は、すべての数多い菩薩の中でも、教主釈尊の左右の大臣のような存在である。

しかるに仏一代の教法の中で特に越え優れた法華経八年間の説法の座に、十方の諸仏・菩薩らが大地の微塵の数よりも多く集まってきていたのに、左右の大臣に相当する普賢菩薩がその場にいなかったのは不思議なことである。

だが妙荘厳王品をお説きになられ、さてこれで終わりにしようとしたところへ、東方の宝威徳浄王仏の国から、万億もの音楽を奏で、数えきれないほどの天人や竜王や音楽の神などを引率して、遅ればせながらようやく到着した。

大事な説法の場に遅刻したので、仏のご気嫌がわるくなっていることだと思ったのであろう、顔色をかえて「末代に法華経の行者を守護いたします」とねんごろに申し上げたので、仏も法華経を全世界に広めることについて、ことに気を遣って大切に行なうべきことを聞き知り、大変にほめられたのであった。かえって位の上の者よりもていねいに仏はおほめになられた。

このような深い意義のある法華経を、末代の女人が二十八品を各品ごとにご供養しようとお考えになられたのはただ事ではない。尊いことである。

宝塔品では多宝如来や釈迦如来や十方の諸仏を始め、すべての菩薩が集まってこられた。この宝塔品の容相はいまどこにあるかと考えてみると、日女御前の胸の中にある八葉の心蓮華の内にあると日蓮は見ている。

例えば蓮の実の中にこれから咲く蓮華の花があるようたものであり、后の胎内に太子が懐妊しているのと同様である。前世に十善戒をたもった人が、今世に太子となって生まれようとし、后の胎内に宿れば諸天善神はこれを守護する。だから太子のことを天子ともいうのである。

法華経の二十八品の文字は、六万九千三百八十四文字ある。一字一字の文字はみな太子のごとくであり、一字ごとに仏の種子である。闇の中に人影があっても人には見えない。大空に鳥の飛ぶ跡があるがこれも人には見えない。また大海の中に魚の通る道があるが、これも人には見えない。さらに月には四天下の人や物が一つも欠けずに映っているが、人には見ることができないのである。しかし天眼を備えた人にはこれらが見える。

日女御前の御身の内心はこれと同じように宝塔品で説かれている尊い容相があるのである。凡夫の眼では見ることはできないけれども、釈迦・多宝・十方の諸仏はご覧になっておられる。日蓮もまたこれを推しはかって見ることができる。実に尊いことである。

中国における周の代の文王という人は、孝の道を尊び老人を大切にしたので、その徳により戦に勝利を得て、その子孫三十七代八百年もの間、末裔には悪いこともあったが、先祖である一番根本の文王の功績によって、隆昌したのであった。

インドの阿闍世王は、大悪人であったが、父の頻娑婆羅王が仏を数年間にわたって供養したので、九十年もの間、王位をたもつことができたのである。

現代もまたこれと同様で、法華経の敵となってしまった幕府の時代なので、少しの間も法華経をたもつことはないと思うが、故権の大夫殿(北条義時)や武蔵の前司入道殿(北条泰時)の政治が良かったので、その功によりしばらくの間は安穏であろう。それも終には法華経の敵となってしまったので、かなえられないでほろぶであろう。

この幕府の人々のまちがった考えによると、「念仏者等は法華経に親しみをもっている。それなのに日蓮は念仏の敵となっている。われらは念仏も法華経も双方を信じている」と。

日蓮はこれにたいして、「当代の幕府に大きなあやまちがなかったならば、古今を通じていまだかつてない疫病や飢饉や大兵乱はどうして起きたのか。召し出して善悪の決着もつけずに法華経の行者を二度も大罪に処したのはなぜか」(これでも法華経を信じ親しみを持っているといえるのか)。まことに不都合なことである。

このような世の中にありながら、しかも女性の御身で法華経の御命を続けさせようとご供養されることは、釈迦仏・多宝如来さらに十方の諸仏の御父母の御命を継ぐことになるのであって尊いことである。このような功徳を持っている人は、あなた以外にこの世界の中にいるであろうか(いやいや決していないであろう)。恐れながら謹んで申し上げる。

六月二十五日

日蓮花押

日女御前

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