日蓮仏教の勉強 幸せに生きる為の方法を学ぶ

法華経を中心に仏教の勉強をしています















日蓮仏法 開目抄

 

竜の口の法難と佐渡流罪というのが

 

ありました。

 

日蓮大聖人が佐渡流罪されたわけです。

 

10月の末に佐渡について、11月上旬に

 

塚原の三枚堂というところに入りました。

 

今でいう12月中旬くらいになるので、

 

相当寒い環境であったようです。

 

三枚堂というと聞こえがいいですが、

 

実際は荒屋だったそうです

 

寒風が吹き込み、雪が降り積もる、

 

寒くて大変なところだったようですが、

 

ここに着いてまず考えたのがこの開目抄

 

だったということです。

 

開目抄があらわされる前の年、

 

日蓮大聖人と門下に対する大弾圧が

 

起こったそうです

 

日蓮大聖人をとらえた後、鎌倉の大通りを

 

通って見せしめのようにして連れて

 

いったようです

 

その日の深夜、竜の口の処刑場へ連れて

 

行ったのですが、首を切ろうとした時、

 

上空に謎の光が現れて兵士たちは

 

大慌てで逃げ出したとのことです。

 

これによって処刑は失敗となり、

 

幕府は佐渡流罪することに決め、

 

同時に、門下たちに厳しい弾圧を

 

加えて行ったそうです。

 

この開目抄の中で、日蓮というものは

 

9月12日に竜の口で首をはねられて

 

死んでおり、今ここにいるのは魂魄が

 

つまり魂が、佐渡に至って今、降りしきる

 

雪の中でこの開目抄という書物を

 

書いていますと書いています。

 

この凡夫日蓮というものは死んでいると

 

この大難を4回も超えてきた生命力で

 

戦い抜いてきたその魂が、この開目抄を

 

書いているという内容になっており、

 

心にある根本が開目抄に書かれていると

 

いうことになります。

 

つまり、自分は、法華経の行者、つまり、

 

法華経の実践者であるということが

 

書いてあるということになります。

 

開目というのは、目を開け、

 

大聖人を罪人として当時の鎌倉幕府

 

日本の社会は佐渡に流したわけなのですが、

 

目を開け!つまり、日蓮に目を開け、

 

そして、日蓮の魂に目を開け、

 

もちろんそれだけではなく、自分自身の魂、

 

生命の可能性に目を開けということでもある、

あなたの可能性に目を閉じてはいけないと

 

いう大きな叫びであったとのことです。

 

開目抄のテーマは、主師親(しゅししん)

 

末法を救う精神的指導者)を明らかに

 

することです

開目抄の冒頭に、主師親三徳これを

 

テーマとして掲げています。

 

主師親三徳とは「主」の徳、「師」の徳、

 

「親」の徳の3徳のことです。

 

この三徳を具備、つまり併せ持っている人が

 

一切衆生にとって尊敬し、

 

仰ぐべき精神的指導者ということになります。

 

・主の徳とは

  

人々の生命、生活を支え、守る主君の徳

 

・師の徳とは

 

知識、智恵を教え、人々を導く師匠の徳

 

・親の徳とは

 

人々を育て、慈しむ、慈愛溢れる親の徳

 

この主師親の三徳を備えるものが、

 

一切衆生を支え、導き育んでいく

 

本当の仏です。

 

このように、日蓮大聖人が末法

 

御本仏であると明らかにされていることから、

 

開目抄は、人本尊開顕の書

 

(にんほんぞんかいけん)とも

 

言われています。

 

開目抄の末尾には主師親をテーマとした

 

開目抄の結論が述べられています。

 

日蓮

 

日本国の諸人に

 

主師親

 

しうし父母なり

 

日蓮は、日本国の主師親であるというのが

 

開目抄の結論となっています。

 

当時の日本というのは、末法の典型の

 

国土だったんだそうです。

 

末法という時代は思想宗教が混乱し、

 

人間社会時代全体が悪から悪へと

 

根本の善がわからなくなってくるので、

 

迷走していくという時代でした。

 

それを留めるには根本の善を発見して

 

それを実現し、現していく、

 

悪の激流を逆に、善の潮流で押し返していく、

 

これをやらなければいけない

 

この善の潮流を作るのが、仏界の生命に

 

なります。

 

そのことによって分裂と破壊へ向かう

 

末法の時代を救っていこう、

 

これが大聖人が考えていたことのようです。

 

主師親がテーマで、日蓮が日本国の

 

主師親であるということが結論

 

では、肝心の中身は何が書いてあるのか

 

ということですが、仏法の釈尊

 

主師親である

 

何故かというと万人が成仏できる法を

 

説いたのが釈尊だけだからということです。

 

成仏の法を一念三千であると表現しています。

 

一念三千の法門は

 

法華経の本門、寿量品の文の底に

 

しづめたり

 

一念三千の法門とは「法華経の教義の

 

真髄を天台大師がまとめたもの」です

 

全ての人の生命に釈尊と同じ仏の生命

 

つまり仏界がある。

 

全ての人が仏であり、全ての人を仏に

 

する教え

 

この、一念三千の法門は、法華経のみ、

 

また、法華経の中でも、本門と寿量品に

 

だけ説かれています。

 

この本当の教えはただ法華経の文底

 

(もんてい)文の底に沈められています。

 

後半は、「法華経の行者」論が

 

書かれています。

 

難を忍び慈悲の

 

すぐれたる事は

 

をそれをも

 

いだきぬべし

 

大聖人が、一念三千の知恵による理解は

 

天台宗が優れていると言ってます。

 

ただ、実際自分で行ずる、法華経の行者

 

としては日蓮の方が優れていると言ってます。

 

 

難を忍びというのは、悪世の大難苦難に

 

あっても、決して万人が成仏できる事、

 

したがって、自分が、一生成仏できる事、

 

そういう確信を崩さない、強気芯、

 

我が生命の本質を悟ったことによって

 

難を忍ぶ、耐える事と、万人を救って

 

いこうという強い慈しみと慈悲の心

 

これを私たちは生きているんだと、

 

それが、法華経の行者ということに

 

なるわけです。

 

その法華経の行者であるということを

 

論じていくのが開目抄の後半です。

 

世間の疑い「なぜ大聖人に諸天の加護が

 

なかったのか」

 

そうした時に、大聖人は、世間の人々の

 

疑いをわざわざ出してきました。

 

どういう疑いかというと、法華経の中に、

 

法華経を信じる人は現世安穏

 

(げんせあんのん)、

 

後生善処(ごしょうぜんしょ)

 

で説かれているわけなのですが、

 

つまり、現世は安穏で、なんの心配も

 

いらないと説かれているけれども、

 

大聖人はなんであんなにたくさんの

 

大難を受けるんだとという疑いが

 

世間からも門下からも出てきます。

 

ただ、これに関して、大聖人は、

 

別になんともなかったじゃないかと

 

バチがないじゃないかと法華経の内容に

 

即してこの疑いに答えて行こうとしました。

 

日蓮大聖人は、開目抄の中で、自分自身が

 

間違いなく末法法華経の行者であることを

 

経文を引いて証明していきます。

 

法華経の経文には、末法法華経

 

広めようとすれば大難に合うことが

 

説かれています。

 

例えば、六難九易(ろくなんくい)や

 

三類の強敵(さんるいのごうてき)

 

という原理があります。

 

6つの難しい事と9つの優しい事です。

 

9つの優しいとこと言っても、枯れ草を

 

背負って火の中に入っても焼けない事や

 

数えきれない経典を覚えて、

 

説法することなど、およそ、不可能な

 

ことばかりです。

 

しかし、それさえ、末法法華経

 

受持(じゅじ)し、悪世の中で人々に

 

法を説くなどの6つの事柄の方が難しい

 

このくらい、法華経末法で広める事は

 

とんでもなく難しい事であるとされて

 

いるわけです。

 

また、三類の強敵は法華経の行者を

 

迫害する3種類の慢心の人たちです

 

俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)

 

とは、仏法に無知な一般の人たちが

 

悪口を言ったり様々な妨害をする事です。

 

道門増上慢(どうもんぞうじょうまん)とは

 

悪心を抱いた僧侶たちが邪智を持って

 

迫害する事です。

 

潜聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)

 

とは、世間でもっとも尊敬されている

 

高僧のことです。

 

しかし、内面は邪悪な心を持ち、

 

金や世間の名声にうるさく、

 

社会の実力者たちにデマを宣伝し、

 

法華経の行者を弾圧するように仕向けます。

 

では、なぜ法華経の行者に現世安穏の

 

現象がないのか、迫害するものに、

 

バチがないのかそのようなことを

 

述べたのが以下のことです

 

1、法華経の行者の過去世に罪がある

 

2、迫害者が次の生で地獄に落ちることが

 

定まっている

 

3、一国総罰

 

栓ずる所は

 

天も捨て給え

 

諸難にもあえ

 

身命を期とせん

 

ここからの話は、自分の内面を明かす

 

内容となってます。

 

その内面が法華経の魂であり究極である

 

ということを示してます

 

結局、諸天善神に捨てられても構わない

 

大難にあっても構わない

 

命を捨てても構わない

 

こういうことを言ってます。

 

今までは、なんで現世安穏じゃないのか、

 

その理由を説明してきました。

 

ここからの話は、そもそもそんなことは

 

どうでもいいんだよということですね。

 

大事なのは、法華経の心は万人の成仏

 

なんだよとこれを法理的にいうと

 

一念三千なんですよとこの真実を

 

言い切っていく使命と実践こそ法華経の行者

 

の根本なんです、その戦いをしてるのが

 

この日蓮なんですよとそのようなことが

 

書いてあります。

 

身子(しんじ)が六十劫の

 

菩薩の行を退せし

 

乞眼(こつげん)の婆羅門(ばらもん)の

 

責を

 

堪えざるゆへ

 

久遠大通(くおんだいつう)の者の

 

三五(さんご)の塵をふる

 

悪知識に値う(あう)

 

ゆへなり

 

善に付け悪につけ

 

法華経をすつるは

 

地獄の業なるべし

 

この文章は、法華経を捨てることは

 

他の善悪を超えた究極の悪であると

 

言ってます。

 

舎利弗布施行(ふせぎょう)をやってました

 

菩薩行を60劫やっていてあと40劫

 

やらなきゃいけなかったわけなのですが

 

半分過ぎたあたりで乞眼(こつげん)の

 

婆羅門ばらもん、有名な話ですが、

 

婆羅門に舎利弗は目を布施するように

 

言われて布施業をしていたわけなので、

 

目をあげました。

 

すると、それを捨てて唾を吐きかけて足で

 

潰したわけです

 

普通は誰でも頭にきます。

 

こんな奴を救うために修行をしてるん

 

じゃないと、人間の感情からすれば最もだと、

 

それでもダメであるということで、

 

菩薩行を退いたそうです

 

一旦退くと全て地獄の業であると

 

いうことです。

 

そのため、どんな最もな理由が

 

あったとしても捨ててはならない

 

そのことを知ってるが故に、

 

自分は退かないのだと門下たちにも、

 

どんな理由があっても大難があっても

 

それは退典の理由にしてはならないと

 

いうことを言っています。

 

それこそが本当の法華経の行者で

 

あるということが書かれています。

 

 

大願を立てん

 

日本国の位を

 

ゆづらむ

 

法華経を捨てて

 

観経等(かんきょう)について

 

後生を期(ご)せよ

 

父母の頚(くび)をはねん

 

念仏申さずば

 

なんどの

 

種種(しゅじゅ)の大難

 

出来(しゅったい)すとも

 

智者に

 

我義(わがぎ)やぶられずば

 

用(もち)いじとなり

 

其の外の大難

 

風の前の塵なるべし

 

ここでは、大願という言葉が出てきます。

 

これがとても大事です

 

最初は、日本国の王位を譲るから

 

法華経を捨てて浄土教の経典である

 

観経等について後生を願いなさいと、

 

そういう誘惑がきて、そのあと、

 

念仏を唱えなければ父母のくびをはねるぞ

 

と脅迫ですね

 

つまり、どんな誘惑にも脅迫にも

 

この万人が仏であり万人を仏に

 

していくんだとこの、真実の道を

 

生き切る決意をしめしています

 

その大願があれば今まで大難だと

 

思っていたことも風の前の塵のように

 

はらっていける、そういう大生命力、

 

これがつまりは仏界のことではありますが、

 

仏と同じ願いを持つと、仏と同じ生命が

 

涌現するということです。

 

これが日蓮仏法の仏界涌現の道という

 

ことになります。

 

これが、広宣流布の戦いをする理由と

 

なります。

 

我日本の柱とならむ

 

我日本の眼目とならむ

 

我日本の大船とならむ

 

等とちかいし願

 

やぶるべからず

 

この大願ですが日本は、末法とほぼ

 

同じなので、末法の柱、人々を支える柱、

 

これは主の徳にあたります

 

末法の人々を導く眼になる、

 

これは師の徳にあたります

 

末法の人々を乗せていく大船、

 

これは親の徳にあたります

 

そういう主師親の3徳を備えた戦いを

 

していくとその願いを絶対に破らない

 

この願いに生き抜くぞという話が

 

書いてあります。

 

広宣流布の大願こそ日蓮仏法の要。

 

日蓮仏法は広宣流布の宗教である

 

ということですね。

 

我並びに我が弟子

 

諸難ありとも疑う心なくば

 

自然に仏界にいたるべし

 

天の加護なき事を疑はざれ

 

現世の安穏ならざる事を

 

なげかざれ

 

我が弟子に

 

朝夕教えしかども

 

疑いををこして皆すてけん

 

つたなき者のならひは

 

約束せし事を

 

まことの時はわするるなるべし

 

日蓮大聖人は日蓮仏法の大願の戦いの

 

功徳を開目抄の最後に説いてます。

 

一つは転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)

 

過去世の重罪を転じて現世で軽く

 

その報いを受ける事

 

なぜ難を受けるのか、実は、軽く受けて

 

宿業を全て消すためであるという事

 

もう一つが一生成仏

 

全ての人は共に、末法には必ず何かしらの

 

難があります

 

これらの難があっても、疑う心無く、

 

つまり、強い信心を貫いた時、

 

知らないうちに自然に、自然にというのは

 

つまり、自分の生命においてそのまま

 

凡夫の身を改めずに仏界に至ることが

 

できる

 

つまり、成仏の功徳

 

即身成仏、一生成仏の功徳を説いてること

 

になります。

 

実は現世安穏の本当の姿はこの師弟不二

 

大願に生きる信心のことである、

 

成仏であるということになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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