日蓮仏教の勉強 幸せに生きる為の方法を学ぶ

法華経を中心に仏教の勉強をしています















法鏡 仏教を学ぶという本当の意味を知りましょう





 

今回は、「法鏡」についてのお話です。

 

これは、お釈迦様が亡くなる直前に仏教とはどんな教えなのかを

 

一言で表された言葉だと言われています。

 

仏教とは、「法の鏡である」という事なんですが、法鏡というのは、

 

いつでもどこでも変わらないありのままの自分の姿を映す鏡のような

 

教えですよとこのような意味となります。

 

例えば、我々は、自分を知る時に、人の目、人の意見に重きを置くことが

 

多いかと思います

 

わかりやすいのが、SNSの投稿がありますが、自分を良く見せたいがために、

 

人の写真を、あたかも自分が食べたかのようにアップする人がいたりしますね

 

それ以外にも、本当に自分で食べに行ってるのですが、

 

それから1週間ほどカップラーメン生活だったり、でもいつもそんなのを

 

食べてるかのように配信してる人もいたりします。

 

これらは全て、人からよく見られたいという思いからくる行動で、こういう心は、

 

仏教では、「名誉欲」と言います。

 

褒められたい、よく見られたい、悪く見られたくない、などの気持ち、

 

心のことを名誉欲と仏教では言います。

 

このように、よく見られたいという思いが割るわけなので、

 

そういうことに一喜一憂してしまうことも多いかと思います。

 

 

 

では、こんなに気にしてる人の評価って、本当にありのままの本当の自分を

 

評価しているのでしょうか

 

例えば、自分が人の評価をする時は、自分の都合や想いや

 

立場によって変わると思うんですよね。

 

この人微妙だなと思ってても、ある日すごく親切なことをしてくれたら、

 

微妙だと思ってたのは勘違いだったのか、めっちゃいい人じゃんみたいに

 

180度評価が変わることなんて当たり前に経験してることかと思います。

 

これは単純に自分の都合が変わっただけなんですが、

 

自分に都合がよければいい人だなと思うし、どんなに相手が正論を言ってても、

 

自分の都合に反することだとやはり反対したい気持ちになると思います。

 

そういう、人の評価、人のいうことばかり気にしていると、

 

本当に自分のしたいことややりたいことができなくなります

 

 

童話にこんな話があります。

 

ある親子が貧しくてロバを売ってお金にしようと街に出かけました

 

最初はロバを引いて歩いていました

 

そこへ通りがかった人が、「せっかくロバがいるんだから乗ればいいのに」と

 

ブツブツ言いながら通り過ぎました。

 

それを聞いたお父さんは、「そうだなあ」ということで、子供をロバに乗せました。

 

さらに進んでいくと、「あんなに若い時から子供を甘やかして、

 

ろくなことにならないぞ」みたいにブツブツ言いながら通り過ぎた人がいました

 

それを聞いたお父さんは、確かに、それもそうだなと思い、

 

子供をおろして今度は自分が乗りました。

 

するとまた人が歩いてきて、「自分だけ楽して、子供が疲れてるじゃないか」

 

みたいなことをブツブツ言いながら通り過ぎるわけです

 

それを聞いたお父さんは、それもそうだなということで、

 

今度は自分と子供ふたりでロバに乗りました

 

またまた人が通りがかって、「ロバがかわいそうじゃないか、

 

疲れてるじゃないかとブツブツ言いながら通り過ぎていくわけです

 

それを聞いたお父さんは、それもそうだなということで、

 

今度はロバの足を棒に紐でくくりつけてお父さんと子供で担いで歩き始めました

 

しかし、そのかっこがロバには苦しかったのか、ロバは暴れ出すわけですね

 

ちょうどその時、川にさしかかって、ロバが暴れて川に落ちました

 

ロバは足を縛られているわけなので、そのまま溺れて死んでしまう

 

というかなりブラックな話なわけなんですが、結局その親子はロバを

 

売ることが目的だったのに、他人の意見ばかり気にして結局何も

 

得られなかったという話になります。

 

 

 

 

つまり、人の評価ばかり気にしすぎるあまりそれに振り回されて

 

結局何もできなかった、何も得られなかったということですが、

 

結局我々も人からの評価とか人にどう見られているかということに

 

振り回されてしまうと何もできなくなってしまいます。

 

仏教の視点からは、その人は、周りの人に振り回されてるように見えるのですが、

 

実はそうではなく、自分の心に振り回されている、

 

つまり名誉欲に振り回されているだけなんだということになります。

 

 

 

さて、人には、煩悩の一つ、「慢」というものがあります。

 

例えば、スピード違反でパトカーに追いかけられた時に、

 

自分よりもっと悪いことしてる人たくさんいるのに、なんでそういうひとではなく、

 

自分を捕まえようとするんだ見たいなそんな自分を良いものだと思う心、

 

自惚れる心のことです

 

この心は誰でも持ってるものです

 

さらに、この自惚れかたによって、7通りの慢、「七慢」というものがあります。

 

 

 

 

 

七つのうちの一つが、「慢」で、自分より劣っている相手を見て、

 

自分の方が優れていると見下す心のことです。

 

二つ目は、「過慢」といい、自分と同程度の相手を見て、

 

相手の実力を素直に認められない心のことを言います

 

三つ目は、「慢過慢」といい、自分より上の相手を見て、

 

欠点や落ち度を探し出し、相手の上に立とうとする心を言います

 

このように、うぬぼれ心が態度や言葉に現れると、

 

上から目線と言われ相手に不愉快な気持ちを与えるわけです

 

このうぬぼれ心の一番厄介なところは、周囲の人は気づいていても、

 

本人に自覚がない場合が多いことです

 

知らず知らずのうちに、天狗になってしまい相手を見下す言動をしていながらも、

 

本人にはその自覚があまりなく、周りの人たちからすると非常に

 

不愉快な気持ちになるわけです。

 

四つ目は、「我慢」といい、自分の誤りに気づきつつも意見や

 

主張を押し通そうとする心を言います

 

一般的には、耐えること、しのぶことを言いますが、

 

本来仏教での我慢はそういう意味ではないそうです

 

五つ目は、「増上慢」といい、悟りを開いていないのに、

 

悟りを開いたと自惚れる心のことを言います。

 

これに関しては一般的な人にはあまり関係してこないものかもしれません

 

六つ目は、「卑下慢」といい、卑下する態度を取りながら、自分の謙虚さ、

 

腰の低さに自惚れる心を言います

 

私は未熟者ですからとか、何も知らないものですからと口では言っていても、

 

実際、本当に、あなたは未熟だよねと言われたら、

 

カチンと腹がたつなんてことは誰しも経験があるのではないでしょうか

 

それは、卑下しつつ自惚れてるからそういう気持ちが出てくるわけですね

 

口でそんなこと言ってても、実際心の中ではそんなことは

 

全く思ってないからこそ言われると腹がたつということですね

 

七つ目は、「邪慢」といい、自惚れる価値のないものを誇らしげに

 

自慢する心のことを言います

 

例えば、テストの点数が30点だった場合、俺30点だったぜと

 

自慢げに言っているのを聞いてた別の生徒が、俺なんか20点だったんだぜ

 

みたいな感じで、30点も20点も誇れるべきことではないのだけれど、

 

なんか自慢げに言っていたりするのを見たことあるかと思います

 

不幸自慢などもそれに当たりますね

 

我々は、できるだけ自分を良く見たい、悪く見たくないという気持ちが強いのです

 

こういう心から全く離れることができないのが人間ということです

  

 

これらを知った上で、仏教を学ぶということは、法の鏡、本当の自分の姿を見て、

 

あなたは自惚れてませんか?こういう姿をしてませんか?ということを

 

常に意識できるようになったりするわけです。

 

お釈迦様の弟子が、「お釈迦様には今までいろいろなことを

 

教えていただきましたが、仏教とは一言でどんなことを教えているのでしょうか」

 

と尋ねたことに対して、お釈迦様は、一言、「法鏡である」と答えたんだそうです

 

仏道をならうというのは自己をならうなり」という言葉もありますが、

 

仏教を学んでいくと、何がわかってくるのかというと、

 

「自分自身の姿を知る、学ぶ」ということになるということです。

 

例えば、顔にご飯粒がめちゃめちゃついてるのを、遠回しに、

 

ちょっと鏡を見てきたら?と言ったとします

 

戻ってきたその人の顔にはまだご飯粒がついていました

 

あれ?鏡を見てきたんじゃないの?と聞くと、

 

「ああ、ここの鏡は四角い鏡でしたよ」という答えが返ってきたとします。

 

完全に意味が伝わってませんよね

  

 

鏡を見てこいと言ったのは、鏡の形や材質を見てこいと言ったのではなく、

 

鏡に映った自分の姿を見てきなさいと言ってるわけで、仏教での、

 

法の鏡を見るというのは、仏教のどのお経にどういうことが教えられているのか、

 

この言葉がどういう意味なのかなども当然大事ではあるのですが、

 

その教えを通して自分の姿が見えていないと仏教を学んでいる、

 

聞いているとは言えないということになります。

 

法の鏡というのは、我々の心を映す鏡なので、その鏡を見て自分の心を常に見て、

 

しっかりと考えて生きていくことが重要になるということになります

 

要は、人に振り回されているように見えていても、

 

実際は自分の名誉欲によって振り回されているだけだったとか、

 

自分の心には7つの慢があるんだとかこういうことを仏教を通して

 

自分の心を知らされてきたのであれば、仏教という鏡を見ているから

 

そういうことを知ることができるようになったということになり、

 

そういうことを知ることで、自分の心の姿を見ていく、

 

見つめていくということで、本当の幸せにどんどん近づいていくということに

 

繋がっていくわけです

 





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