日蓮仏教の勉強 幸せに生きる為の方法を学ぶ

法華経を中心に仏教の勉強をしています















玄関の本当の意味を考えていたらまさかの結果に・・・・

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今回は、玄関です

 

玄関という言葉も仏教から来た言葉だと言われています

 

玄関の「玄」という字は深いという意味があります

 

能には「幽玄」という言葉がありますが、物事の趣が奥深く

 

はかりしれないことを言います

 

素人に対して玄人という言葉を使いますが、これは技芸など

 

その道に熟達した職業人、専門家を指します

 

玄という字はこのように、深いという意味があるわけですが、

 

仏教では、玄関を仏教の深い御教えへの入り口、関門というのが

 

元々の意味となります。

 

昔は、仏門に入る際は必ず寺の門を潜って出家してたわけなので、

 

そういうことで、寺の入り口を玄関というようになっていったそうです

 

そこから、現在は各家庭の入り口を玄関というようになっていったわけです

 

家でいうと、玄関を通らずに家の奥には入れない、すすめないわけですね。

 

窓から当然入ったらまずいわけでそういうことで、仏教を一つの家に例えると

 

仏教という玄関、入り口を通って奥の部屋へ入っていく、奥の部屋というのは、

 

悟りの境地、本当の幸せ、喜びの世界のことで、そこに入っていくための

 

入り口が、玄関ということになります

 

仏教に入る玄関、入り口の一つに、「無常観」というものがあります。

 

この世のものには常はなく移り変わっていくことなんですが、

 

無常観の無常というのは諸行無常と言われるようにこの世のものは

 

常はないんですよ、続かないんですよということがこの無常ということになります。

 

形あるものはずっと同じ形ではなく、やがて壊れたり形が崩れて

 

いったりとかして行きますし、人の心、気持ちも無常のものなので、

 

その気持ちが離れていってしまったり最初は全然関心がなかったのに、

 

深く熱中するようになったり人の心もずっと同じではない、無常であると

 

言われています

 

中でも1番の無常は、生きている人にとって終わりの時を迎える「死」を

 

迎えることが1番の変わりようなので、今まで元気だった人が喋っていた人が

 

もう喋れなくなってしまう、動かなくなってしまうというのがとても

 

ショッキングなことなので、仏教では無常というと人の死を指すことが多いようです。

 

ブッダ自身も、無常をきっかけに悟りを求めて厳しい修行に打ち込むように

 

なったわけです。

 

若い頃のブッダが歳をとった人や病気になった人、亡くなった人を見て、

 

この世の無常にめちゃくちゃ驚いていたということになります

 

そういうことがきっかけで、この世のものは続かないんだなとそのうち

 

崩れてしまったり失われたりするんだなとブッダ自身が無常をきっかけで悟りを

 

求めるようになっていますので、昔もいまも仏門に入るきっかけの一つに

 

なっています。

 

例えば、好きだった相手が心変わりをして、ほかの人のところへ行ってしまった、

 

そういうことをきっかけに世の儚さを知らされて仏門に入った人もいるようですし、

 

栄華を極めた一家一族が没落してしまったとか衰退してしまったとか

 

そういうことを通して世のはかないことを人生があっという間に過ぎ去ってしまう、

 

そういうことが痛切に感じられて仏門に入ってこの無常の中にあって

 

いつまでも変わらない崩れない本当の喜びや満足ってなんなんだろうと、

 

それを得たいということで仏門に入った人などもいるようです

 

この無常ということを見つめるというのは仏法を求める武器を求める

 

入り口になりきっかけになることなので、それで世間では葬式とか法事とか

 

こういうものと仏教と結びつきが強くなるわけです。

 

この、無常観以外に、「罪悪観」というものもあります

 

字の通り自分自身の罪深いこと、悪の深いことが知らされて仏教の教えに

 

救いを求めて仏門に入っていくということがあります

 

平家物語というのがありますが、源氏と平家の戦いの話ですが、

 

その平家物語の中に出てくる人物の一人に熊谷次郎直実という人が出てきます

 

埼玉の人で、熊谷市というところがありますが、そこの駅には銅像

 

立ってるそうです

 

この人は源氏側の武将として活躍したわけなのですが、当時平家と源氏が

 

争っていて、源義経の活躍もあって平家は負けて海へ逃れていこうとするのですが、

 

そこに熊谷次郎直実も武将として参加していたため、その手柄になるような

 

相手はいないか探し求めていたところ、一人対象と思われる人物が

 

大きい船の方へ逃げていくのを見つけ、敵に後ろを見せて逃げるとは

 

卑怯だと引き返して俺と勝負しろということで戦ったわけなんですが、

 

熊谷二郎直実はあっという間に勝ったわけです

 

相手はどんなやつなんだと思って見たら自分の子供と同じくらいの

 

少年だったことがわかります

 

それもあり、殺すのをためらったわけです

 

この戦いの前に、自分の子供が怪我をしたということで戦線を離脱して

 

いたということもあり、わずかな傷でさえ親としては子供のことが

 

心配でならないのに、ましてやこの少年の死を聞いた親はどんなに

 

嘆き悲しむだろうかということが脳をよぎってしまい、ここで殺すのは

 

忍びないと思って逃がそうとしました

 

しかし、周りを見てみると味方の兵士がこっちにどんどん向かってくるのが見えます

 

今ここで逃してもほかのものに捕まって殺されてしまうだろう、

 

だったらいっそのこと自分の手でということで、相手の首を打ったんだそうです

 

そして、後々聞くと、その相手は平敦盛という人物で、平清盛の甥っ子で

 

あることがわかります

 

年齢も自分の子供とほぼ同じ、17歳くらいであるとわかり、戦争とはいえ、

 

人を殺すのが仕事になっているわけなんですが、自分の子供と同じくらいの

 

若者を手にかけてしまったということがきっかけで、自分の手が血に

 

まれていると言うか、自分の恐ろしい今まで行ってきた罪悪の姿に気がついてしまい、

 

それがきっかけとなって刀をおいて仏門に入ったと言われています

 

その後、幸せな人生を送ったと伝えられている人物になります。

 

現在でも罪を犯した人は刑務所に入れられるわけですが、刑務所に入ってから

 

仏門に入りましたとかほかの宗教に入信しましたとかそう言う話も

 

良くあるようですが、今まで何気無くやっていたことがとても罪深く

 

恐ろしいことをしていたんだと言うことに気がついてと言うことになるわけですが、

 

じゃあこの熊谷二郎直実や刑務所に入ってる人だけなのかと言うと、

 

一般的な人々も、人は殺してませんが、牛とか豚とか魚とかそう言う

 

生き物を食べていればそれも殺生、生き物を殺していると言うことで

 

とても罪深いことであると仏教では言われています

 

生きるためには仕方がないと言うことで自覚なしに我々は行っているわけですが、

 

こう言う罪深い姿に気がついてこの熊谷次郎直実はとても罪の深いもの

 

でも本当の幸せになれると説いていたようです。

 

仏教というのは、そういう人に対しても区別なく幸せになること、

 

その道を示してくれるんだと説いているため、やってしまったことは

 

恐ろしいことではあるけれど、嘆く必要はない、こういうことがきっかけで

 

罪や悪の姿がきっかけで仏門に入っていくということもあるということです。

 

 

 

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