仏教雑学 【煩悩】 愚痴の心
今回は、愚痴の心ですが、愚痴というと、一般的には言葉だと思う人が多いかもしれませんが、この愚痴という言葉はもともと仏教からきていて、言葉ではなく、心のことです。
愚痴の心というのは、恨み、妬み、不平、不満などなど
それらが心でとどめておくことができなくなって、口から溢れて出てきて言ってるため、言葉であるように思えるわけですね
本人も、心健やかでないですし、愚痴を聞いてる人もいい心地はしないわけです。
我々を悩ませる、苦しませるこのような心であることには間違いないわけですが、昔から恨み妬みの心は「勝るをねたむ」などとも言われるようです。
自分より優れている人を見て妬ましく思う心のことです
仕事などで、後輩が成績を伸ばしていき、自分を追い越していき、出世したなどの時にはこの心が出てきます。
自分が想いを寄せる人が別の人の元へ行ってしまったなどでもそうですね
誰しもある心です
これは、遠く離れた人よりも、身近な人に対して抱きやすい心だったりします
こういう醜い心ではありますが、本当はそういうのは、自分を向上させてくれるライバルのような存在だと受け止めて、自分もより頑張っていこうと思えるといいわけなんですけどね
さて、この愚痴ですが、「愚」はおろかという言葉です
「痴」も、バカとかアホとかそういう言葉になります。
つまり、どうしようもない愚かな心であるということです。
人を恨んだり妬んだり不平不満の心は、とても愚かでばかな心であると、お釈迦様は言ってるそうです
人を恨んだり妬んだりするのはなぜ愚かなのかということなんですが、御釈迦様は、字が読めないとか計算ができないような人を愚かとは言いません
これは、この世の真理、道理、つまり法ということなのですが、この、法がわからないから愚かなんだと言ってるわけなんですね。
この法とは何かというと、「因果応報」のことで、これがわからないから愚かであると言っています。
因果応報というのは、行いに応じた結果が返ってくることを言います
例えば、隣の人が大根のタネを撒いて、一生懸命世話をして、大根が生えてきました
それを見た隣の人が、なんで自分の庭には大根がないのに隣の庭には大根が生えてるんだ、悔しいと言ってるようなものなわけです。
その人が良い結果を得てるということは、その人の努力があったから結果が出ているわけですね。
そういうことにも目もくれずに結果だけを見て比べて恨めしく思うわけですね。
昔の人は、愚痴をこぼすな、汗こぼせと戒めていたそうです。