日蓮仏教の勉強 幸せに生きる為の方法を学ぶ

法華経を中心に仏教の勉強をしています















神様や仏様がいるなら、なぜ不幸な災害や事故でなくなる人を救えないのでしょうか?





 

【寿命が尽きれば、どんな命も亡くなる】

 

東日本大震災が起きた時、被災した日本のカトリック信者の女の子が

 

ローマ法王に質問したそうです。

 

「なぜ子供もこんなに悲しい思いをしなくてはいけないのですか?」

 

それに対する法王の答えはこんな答えでした

 

「私にも答えは見つかりません。でも、神はあなたとともにあります。一緒に

 

祈りましょう」

 

絶対神を持つキリスト教では、当然こうした問いが起きるわけです。

 

人間は神と契約し、神のいうことを守っていれば、救いがある、と教えています。

 

教えを守って、きちんと生活していたのに、どうしてこんな理不尽なことが起きるのか

 

という疑問ですね。

 

一方、仏教には「絶対的な救い」という考え方がそもそもありません。

 

お釈迦様は神ではなく、人間です。

 

人間が人間の苦しみの原因を追求して、ついに結論を見つけ

 

その教えを説いたのが仏教です。

 

修行を重ねた菩薩が人々を救うという考え方も生まれましたが、基本的に

 

絶対的な神ではありません

 

救えるものは救いますが、救えないものは救えません。

 

つまり、仏教には、「なぜ不幸になる人を未然に救えないのか」という

 

発想自体がないわけです。

 

仏教では、あるがままの姿を受け入れます。

 

地震も洪水も、自然な形です。

 

大雨が降ることもあるし、雪崩がやってくることもある

 

それは自然(じねん)の道理であって、人間の命がなくなるのも

 

自然の理

 

雨が降り、風が吹くのと同じように、寿命が尽きれば、どんな命も亡くなります。

 

それを誰かが救ってくれるということはありません。

 

震災で亡くなった人と生き残った人の違いは、仏教的にいうと、

 

寿命があったかなかったかの差です。

 

病気で亡くなる人、事故でなくなる人、老衰でなくなる人、災害で亡くなる人、

 

人はいろいろな死に方をしますが、それは寿命がなくなったから死ぬだけです。

 

そこに救いの有無はありません。

 

命とはそういうものです。

 

人はいつかは必ず死ぬ

 

ただそれだけです。

 

それを、「もう少し生きていたかった」とか「これがなければ生きていたはずだった」

 

と思うのは、煩悩であり、無明(あれこれ悩むこと)です。

 

そう考えるから苦しくなる。

 

最後は誰でも死ぬんです。

 

ただそれが、明日死ぬか、1週間後に死ぬか、十年後に死ぬかの違いだけ

 

それを前提とした上で、

 

自分はどう生き、どう学び、どう受け止めるかが大事なんです。

 

不幸にして身近な人が死に、自分が生き残ったとしたら、

 

助かった人はその苦しみを乗り越えていく

 

どう乗り越えるのか、そこが大事です。

 

辛い、不運だ、不公平だ、そう憤って生きるのも人生だし、

 

誰もが死ぬことを前提に、よりよく生きることを追求するのも人生です。

 

どっちを選んでもいいわけです。

 

あなたの自由です。

 

自分はどちらの人生を選びたいのか。

 

ただそれだけの問題です。

 

 





スポンサーリンク